母のホロスコープ
「お母さんのホロスコープを作りなさい」と、私の師に言われていました。
従いませんでした。
怖かったからです。ホロスコープにははっきりと出るはずだから、死期を眼前に見せ付けられてしまうのがどうしようもなく嫌だったからです。
母が、3回目の脳出血を起こした頃から、私のことでカードを捲れば、必ずどこかに母の死の暗示が出ていました。それもあって、余計に嫌だったのです。
ですが、それは、占者として私が通常とろうとしている姿勢ではありませんでした。
私は、「自分のことが占えなくてどうする」と思っていたはずです。
決して、傲慢な態度ではなく、カードは、ホロスコープ解読は、占的を客観視するためのツールだと考えているという意味です。
師は、母のホロスコープから、その死期を12月後半から1月中と読んでいました。でもそれは、太陽(=母自身)と木星(=幸運の星、拡大、完成・・タロットカードならⅩⅩⅠを顕します)のトリンという、よいアスペクト(惑星同士の角度)に拠るものだったのです。
カードは、どうしても感情が強く出てしまうので、私のひくカードは「悲しみ」のイメージばかり強調されていました。でも、言いつけに従ってホロスコープをかいていたなら、母の死が「大往生」であるのだ、と私がしていたのとは違う覚悟ができたはずです。
正直、母の死のダメージは私には大きくて、身体を壊しましたし、ぽっかりと空虚な心で過ごすことが続きました。
でも、母は苦しむことなく逝った。母は子供たちに、その家族に看取られた。母は昏睡状態になる前には笑っていた。
私を主体とすれば、母の死は悲しみ、悔いが残り・・・という側面ばかりのように思っていましたが、母を主体とすれば、その人生はきっと幸せに完成されたものだったのかもしれません・・・太陽と木星のトリンなら、きっとそうです。
ならば、私の悲しみは、いつまでもそこに浸るのであれば、浸ってすべきことを放棄するのであれば、ただの自己憐憫に過ぎません。
母が亡くなって以後、やっと授業に行けたときに、私の姿勢が間違っていたことを思い知り、深く反省しています。いつまでもめそめそした私に、母は困っていたことでしょう。
四十九日も終わりました。
もうすぐ彼岸で、またこちらへ来てくれます。
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